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「ラ・カンパネラ」で旋風したフジコ・ヘミングが92歳で死去|死因はすい臓がん

Written by
2024.05.28
どるちぇ
【執筆・監修】どるちぇ

4歳よりピアノを習い、20歳より電子オルガン・コード理論を学びました。 現在は、20年以上継続している自宅でのピアノ教室で2歳からの子どもたちと一緒にピアノの練習をしています。 保育士資格を独学で取得し、保育園にて子どもたちとリトミックや季節の歌を楽しんできました。皆さまのピアノライフのお役に立てるようにピアノの魅力をたっぷりお届けします。

  • フジコ・ヘミングがなぜ亡くなったのかについて知りたい
  • 彼女の言葉や残した思いについて深く知りたい
  • 彼女のキャリアと人生における主要な業績や影響を知りたい

とお考えではありませんか?

フジコ・ヘミングは、2024年4月21日すい臓がんのため天国へと旅立ちました。
一般財団法人フジコ・ヘミング財団より発表された彼女の訃報を、ニュースで知った方もいるのではないでしょうか?

彼女の演奏やチャーミングな人柄は多くの人の心に残っているでしょう。

この記事では、

  • フジコ・ヘミングとは世界的ピアニスト
  • フジコ・ヘミングのキャリア
  • フジコ・ヘミング人気の秘密7つ

について説明しています。

フジコ・ヘミングの壮絶な音楽人生から彼女の魅力を紐解いていきます。

世界的ピアニストの「フジコ・ヘミング」

世界的ピアニストの「フジコ・ヘミング」

本名は、ゲオルギー=ヘミング・イングリット・フジコ。

日本とヨーロッパ、アメリカで活躍した聴覚障害を持ったピアニストです。
優れた技術と情熱的な演奏で世界中で賞賛されました。

日本人ピアニストの母とスウェーデン人の父の間に生まれ、リスト作曲「ラ・カンパネラ」の演奏などで社会現象を巻き起こしました。

フジコは16歳のときに、中耳炎で右耳の聴力を失います。
聴力が完全に回復しないまま、東京芸術大学卒業後にベルリンへ留学しました。

ヨーロッパで音楽活動を行っていましたが、リサイタル直前に風邪をこじらせ、左耳の聴力も失うというアクシデントに見舞われます。

演奏家としてのキャリアを中断せざるを得ない状況になりました。

その後、耳の治療を続ける傍ら音楽学校の教師の資格を得て、ピアノ教師をしながらヨーロッパ各地でコンサート活動を続けました。
治療のおかげで、左耳は40%ほど回復しています。

母の死後、1995年に日本へ帰国しコンサート活動を続けました。
1999年、NHKドキュメント番組「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放送されて大きな反響を呼びました。

その後に発表された「奇蹟のカンパネラ」は、日本のクラシック会では異例の大ヒットとなります。

フジコ・ヘミングは生涯独身を貫きました。

92歳で死去、死因は?

2023年まで演奏活動を続けていましたが、11月に自宅で転倒し以降の講演を中止していました。
2024年3月に「すい臓がん」と診断され療養していましたが、4月21日に容体が急変し、帰らぬ人となりました。

【年表で解説】フジコ・ヘミングのキャリア

【年表で解説】フジコ・ヘミングのキャリア

壮絶な人生を歩んだフジコのキャリアとはどのようなものだったのでしょうか?

  • 幼少期
  • 学生時代
  • 国立ベルリン音楽大学留学時代
  • ヨーロッパでのピアニスト時代
  • 日本に帰国してから
  • 死去

の順に生い立ちを見ていきましょう。

幼少期

1931年(0歳) ・12月5日ベルリンで生まれる。
父は画家、建築家のスウェーデン人「ジョスター・ゲオルギー・ヘミング」、母は東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト大月投網子(おおつきとあこ)。
弟は俳優の大月ウルフ。
1936年(5歳) ・東京に戻り母、投網子の手ほどきでピアノを始める。
・父は開戦の色濃い日本から離れたため、親子3人暮らしになる。
1941年(10歳) ドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏に師事

学生時代

小学3年生 NHKラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。
1948年(17歳) デビュー・コンサートを果たす。
1951年(20歳)
東京芸術大学在学中
NHK毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数の賞を受賞した。
東京芸術大学卒業後 ・本格的な演奏活動を始めた。
・兼ねてより留学を望んでいたが、無国籍であることがわかり、パスポートの申請ができなかった。

国立ベルリン音楽大学へ留学時代

1959年(28歳) ・難民として、国立ベルリン音楽大学(現・ベルリン芸術大学)へ留学を果たした。
優秀な成績で卒業。
・世界的指揮者レナード・バーンスタインにも注目されるなど、頭角を表した。
卒業後 長年にわたり、ヨーロッパに在住し、演奏家としてのキャリアを積む。
しかし生活面は大変困難で、苦痛な状況が長く続いた。

ヨーロッパでのピアニスト時代

1969年(38歳) ・レナード・バーンスタインのリサイタル直前に風邪をこじらせ「聴力を失う」。
・16歳の頃中耳炎の悪化により、右耳の聴力を失っていたが、このときに左耳の聴力も失ってしまった。
何を弾いても何も聞こえなかった。
多くのチャンスを逃してしまう。
年月不明 ・失意の中ストックホルムへ移住する。
・耳の治療をしながら、音楽学校の教師の資格を得た。
・ピアノ教師をしながら、ヨーロッパ各地でコンサート活動を続けた。

日本へ帰国してから

1995年(64歳) ・母の死をきっかけに30年ほど続けた海外生活に終止符を打ち東京へ戻った。
・母校、東京芸術大学の旧ホールを再起の舞台に選びコンサートを行った。
・ピアニストとして活動が始まる。
1999年(68歳) ・NHKのドキュメント番組「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放送されて「フジコブーム」が起こった。
・同年に発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は日本のクラシック会では異例の大ヒットとなった。
・その後、本格的な音楽活動を再開した。
2003年(72歳) ・フジテレビ系でフジコの波瀾万丈の半生がテレビドラマ化された。
母との関係を軸にして描いた物語で、フジコ役を女優の菅野美穂が演じ、20.1%の高視聴率を記録した。
  その後も意欲的に世界各地にて演奏活動を行った。
2020年(89歳) 愛煙家だったフジコがタバコをやめる。
2021年(90歳) 「フジコ・ヘミングオリジナルフレーム切手セット」が販売される。
フジコが描いた絵画や写真が元になっている。

死去

2023年11月(91歳) ・自宅で転倒し、治療とリハビリに専念していた。
復帰してピアノ演奏をしたいという強い意思を持ち、病室でもピアノの練習はしていたと言われている。
2024年3月(92歳) すい臓がんと診断される。
2024年4月21日(92歳) 容体が急変し、神の御許へと旅立った。

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フジコ・ヘミング人気の秘密7つ

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遅咲きピアニストのフジコ・ヘミングには人を引き込むパワーがあります。
演奏だけではない魅力にはどのようなものがあるのでしょうか?

  • NHKのドキュメンタリーがヒット
  • 異例の大ヒット「奇蹟のカンパネラ」
  • 動物愛護への関心が深かったフジコ・ヘミング
  • 努力家で負けず嫌い
  • 少しくらい間違っても構わない
  • ベジタリアンだったフジコ・ヘミング
  • 住まいと猫

彼女の人気の秘密を7つ解説します。

NHKのドキュメンタリーがヒット

フジコ人気の秘密1つ目は「NHKのドキュメンタリーがヒットした」ことです。
1999年に放送されたNHKのドキュメンタリー「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」がきっかけで、フジコ・ヘミングは知られるようになりました。

波乱に富んだ人生や再起にかける日々、東京で暮らしていた頃の日常などが描かれています。
苦難に直面しながらも、ピアニストとして自分にこだわり続ける姿に感銘を受けた方も多いのではないでしょうか?

「もっとフジコのピアノが聞きたい」と人々に感動を与えました。

異例の大ヒット「 奇蹟のカンパネラ」

フジコ人気の秘密2つ目は異例の大ヒット『奇蹟のカンパネラ』についてです。
NHKドキュメンタリー放送と同じ年に出したファーストアルバム「奇蹟のカンパネラ」は、クラシック界では異例の200万枚を超える大ヒットとなりました。

60代の遅咲きピアニスト「フジコブーム」の到来です。
今でもその記録を更新し続けています。

異例の大ヒットとなった理由は、フジコが絶望からもう一度人生を取り戻そうとした一つひとつの歩みが、鐘の音色と重なったからではないでしょうか。
フジコ自身も「ラ・カンパネラ」には特別な思いを持っていたようです。

「完璧で機械のような演奏はきらい」とフジコは言っています。

一つひとつの音に色をつけるように演奏された、筆者おすすめ3曲を以下に紹介します。

ショパン作曲「ノクターン第2番」

ノクターン 第2番 変ホ長調 作品9の2(ショパン)

「子どもの頃から物思いにふけることが好きだった」と言っていたフジコの姿にぴったりの曲です。
フジコは、夜遅くまで暗い部屋でピアノを弾いていました。

シューマン作曲「トロイメライ」

ショパンのノクターンと同様に哀愁漂う曲で、懐かしさや寂しさが音色から感じられますね。

リスト作曲「ため息」

難易度が高い曲でもフジコは、小鳥がさえずるかのように美しく軽やかに奏でました。
「リストを弾くために生まれてきたピアニスト」と言われる理由がわかる1曲です。

動物愛護への関心が深かったフジコ・ヘミング

フジコ人気の秘密3つ目は「動物愛護への関心が深かった」ことです。

フジコ・ヘミングは、東京にある母が残した下北沢の洋館で数匹の保護猫と一緒に暮らしていました。

フジコは「私の人生にとって1番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。
自分より困っている誰かを助けたり、野良1匹でも救うために人は命を授かっているのよ」と話しています。
お金がなくても猫にご飯を食べさせるために、とにかく質素に暮らしていたそうです。

また、米国同時多発テロ後の被災者救済のため、アフガニスタン難民のために寄付を行っていました。
3.11東日本大震災復興支援チャリティーコンサート、及び被災動物支援チャリティーコンサートといった支援活動も続けるなど音楽を通じた様々な支援活動も欠かすことがありませんでした。

優しいフジコの気持ちは、貧しかったときにチケットを買ってもらった経験から感謝を忘れない思いがあるのかもしれません。
「どんなに嫌いな人でも、威張っている人でも人を絶対に傷つけない」という優しさも、人を惹きつけるフジコの魅力なのでしょう。

努力家で負けず嫌い

フジコ人気の秘密4つ目は「努力家で負けず嫌いな性格」です。

天才ピアニストと言われたフジコ・ヘミングですが緊張も不安も人一倍感じていたようです。

本番前の練習では、自分で納得がいくまで繰り返す練習や努力、ただひたすら音楽に向き合う姿に感動を覚えました。
「得意になると間違える。
調子に乗るとダメだから慎重にやる」という言葉から、才能は特別ではなく努力によるものだと言えるでしょう。

この負けず嫌いは母の存在が影響しているとも話しています。

5歳から母の手ほどきではじめたピアノは厳しいレッスンでした。
母に褒められたこともなければ、認めてもらえることもなく寂しい気持ちだったようです。

「大嫌いで大好きな母」この寂しさや悔しさが苦難にも負けない前向きな頑張るエネルギーになっていました。
普段から母にもらったブレスレットを肌身離さず大切にしていました。

少しくらい間違っても構わない

フジコ人気の秘密5つ目は「少しくらい間違っても構わないと思えるおおらかさ」です。

フジコは「私の演奏にはミスタッチが多い。
直そうとは思わない」「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいんじゃない。
機械じゃないんだから」(ラ・カンパネラ演奏について)このように話すおおらかな一面も持ち合わせていました。

フジコは「失敗を恐れすぎると自分が出せないから、思い切りやることが大切」とも言っています。

完璧な機械のような演奏を嫌い、一つひとつの音に色をつけるように弾くフジコの演奏に、人は魅力を感じるのではないでしょうか?

ベジタリアンだったフジコ・ヘミング

フジコ人気の秘密6つ目は「フジコはベジタリアンだった」ことです。
「じゃがいもが命の源だ」とフジコは言っています。

ドイツでピアノ教師をしている50代前半、急にベジタリアンになりました。
友人に影響され動物性たんぱく質の肉や魚、卵などを摂らないようにしたら、途端に更年期障害の症状がおさまったそうです。

母からの手紙にも「じゃがいもとトマトで医者知らず」と書いてあり、主食をじゃがいもとトマトにしたら15年間医者に行く事はなかったそうです。

住まいと猫

フジコ人気の秘密7つ目は「住まいと猫」です。

フジコの母から譲り受けた下北沢の洋館には、グランドピアノが2台とアンティークな家具が置かれています。
その周りを保護猫が自由に歩き回ったり、毛づくろいしたりしている様子が印象的です。

猫と暮らし始めた時期は、フジコが聴覚を失い絶望していたときと言っています。
ピアノを閉じて泣きふしていると、猫が頭を「ポン」と撫でてくれたことがきっかけになったようです。

絶望からもう一度人生を取り戻したフジコ・ヘミング

絶望からもう一度人生を取り戻したフジコ・ヘミング

フジコ・ヘミングは、日本人ピアニストの母とスウェーデン人の父の間に生まれ、リスト「ラ・カンパネラ」の演奏などで社会現象を巻き起こしました。
貧困と自身の聴力を失った絶望から諦めることなくピアノ演奏を続け、60代後半から注目を浴びる遅咲きの人気ピアニストとなりました。

フジコは、弱者への視線、自身が苦難に直面しても愛と感謝を忘れない心を生涯持ち続けます。
一つひとつの彼女の歩みが「年齢を明かそうとしない」「どこの国にも属さない」というベールに隠された部分と重なり合って音色になり、聞く人を惹きつける力になったのではないでしょうか?

  • 彼女の存在を今まで知らなかったことがとても残念
  • フジコのピアノをもっと聞いてみたい

このような声も聞かれるほど人々を惹きつけたフジコの魂の演奏や音色を直接聴くことは叶いません。

フジコは「世界最高を弾かないと気が済まない」という思いで、努力を続けてきました。

フジコ・ヘミングの音楽は、彼女の人生の歩みと共に、名演が収められた作品などを通して永遠に語り継がれていくでしょう。

母にほめられたことはなかったとフジコは言っていました。
天国では母にほめられ、安らかに思う存分ピアノ演奏を楽しんでほしいと願わざるにはいられません。

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